ジェラシーください

いつでも戻れる場所としての本。

2014年、京都芸術大学 空間演出デザイン学科、学生最後の1年間のゼミの記録と、卒業制作の記録をまとめたアーカイブブック。

学生が就職し、数年が経ち、社会の構造と問題点にも少しづつ気づき始めると同時に迷い始めた時に、いつでも戻れる場所としての本になればと思った。大人になるにつれ、頭が硬くなり、多様性を認めることが難しくなったときにも効いてほしい。光あれ!だ。

以下は巻末テキストから抜粋。

ジェラシーはボールのように手にもてない。サンドウィッチのように食べることができない。目に見えない。それは胃と肺の間にすっぽりとはまっている。

中世ヨーロッパにはビネグレットというジュエリーがあった。気付け薬(酢)が小さなジュエリーの中に隠されていて、倒れそうになったり、また倒れてしまったときにそのビネグレットを取り出して蓋を開け、匂いを嗅ぐという。それはジュエリーだけあって、外見は美しく様々な工夫と技術が凝らされている。
しかし、なぜ隠さなければならなかったのだろう。それは隠すことが粋だったということに他ならない。
ぼくたちは映画などでその時代のヨーロッパや日本の人々のファッションを観ることができるが、皆、カバンを持っていない。余計な物は持っていない。リュックもトートもない。持っていてもとても小さい。他人に見せるモノは最小限におさえられている。これも隠すことに無意識の意識がはたらいているからだろう。
カバンの中の持ち物はその人が選んだものだから、その物からその人の様々な情報が読み取れる。当時の人はそれを嫌ったのだ。

話をジェラシーにもどすと、現代においてジェラシーは普通、持ちたくないものだ。でも人ならだいたい(人でなくてもお猿でも)日々なにかしらジェラシーして、胃と肺を圧迫している。そしてそれを隠している。隠しているのは恥ずかしいから(なのだろうか)。
ビネグレットや物を持ち歩かない過去の人々の意識の中にヒントを求めると、一概に恥ずかしいからとは言い切れない。自分自身に訊いてみても、もごもご口ごもる。
「ジェラシーください」とは、ただの開き直りや逆転の発想ではなく、本質であるような気がする。なぜか。

ぼくらはほんとうに大切なものは隠す。それは友だちに見せる必要がない。見せて褒めてもらえなくても、その価値は揺るぎない。他人の目に見える洋服や髪型や文房具はすぐ揺らぐ。あれ?似合ってないかなアレ?とか。
ジェラシーを隠すのは、それは隠す必要があるからだ。それをなくしてしまったら、きっとぼくらはぼくらでなくなってしまう。どんな形かは知らないけれど、美しすぎて、醜すぎるはずだ。そんなもの人に見せるのは不粋だろとぼくたちは知っている。頭では持ちたくないと思っていても、本当は、この困難な時代(と大人が言っている)を生き抜くのにジェラシーがなくてはならないこともぼくたちは知っている。
自分の身体に秘宝があるとすればそれはジェラシーだ。

学生は間もなく卒業する。わけのわからない卒業制作を置いていく。ぼくを含め大人は色んなことを遠いところから言っている。遠くて聞こえていない。時代的にもどこに進んでいいかははっきりしない。だけどこれから先の人生においてやるべきことは分かっているようだ。
ジェラシーをあげること。江戸川コナンのように腕時計だけど麻酔銃、蝶ネクタイだけど変声機、という風に。静かに、誰にも分からないようにそれをつくったものに忍ばせると約束をした。

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